fujii7 Diary

fujii7の備忘録

新潟交通電車線最終列車運行日に思う新潟市の都市内公共交通政策の〝不幸〟

 今から16年前、1999年(平成11年)4月4日。

 「でんてつ」と呼ばれた新潟交通の電車線・東関屋⇌月潟21.6kmが4月5日付で廃止され、燕⇌県庁前(白山前)36.1kmがすべて廃止されました。つまり、新潟交通電車線の〝最終列車〟が走りました。

 もともと、大河津分水路開鑿による水量減少で、中之口川舟運が困難となり、その代替として鉄道事業を始めたのが「中ノ口電気鉄道」でした。
 中ノ口電気鉄道は設立後すぐに新潟電鉄と会社名を変更して、1933年(昭和8年)4月に東関屋⇌白根、7月には県庁前⇌東関屋、8月には白根⇌燕を順次開業させました。
1943年(昭和18年)の大晦日に、いわゆる「戦時統合」によって新潟合同自動車と合併、「新潟交通」となり、以降「新潟交通電車線」が本名ですが、「でんてつ」あるいは「かぼちゃ電車」と呼ばれてました。

 新潟交通電車線については「かぼちゃ電車保存会」「デンテツDreams〜新潟交通電車線の紹介〜」をご覧ください。

 ただ、もともと新潟電鉄は、市役所前から古町を経て、萬代橋を渡って当時の新潟駅前(今の代ゼミ新潟校辺り)まで、道路上を走る計画がありました。これは都市伝説ではなく、史実として軌道特許を申請していました。戦後も1958年(昭和33年)まで特許を更新していました。
 もしかすると、歴史の「ボタンの掛け違い」があったら、新潟駅から路面電車が走っていたかもしれません。しかし、新潟交通新潟市の地下から採れた天然ガスを燃料にしていた(燃料コスト事実上ゼロ)バスに注力していたので、マイカー普及のモータリゼーションが起きなくとも、デンテツは廃止される運命にあったのかもしれません。
 1992年には路面電車区間である白山前⇌東関屋を廃止したときから、もしかすると、新潟市の公共交通政策は右往左往しているのかもしれません。公共交通を核にしたコンパクトシティ化を強力に進める富山市とついつい比較してしまいがちですが、そうでなくとも、新潟市の公共交通政策は不幸の渦中にあるのかもしれません。

 4月1日の記事を読んだとき、新潟市もそうだけど、地元新聞社も新潟市の公共交通政策を不幸にさせている、と感じました。しかし、2日の記事では、浜松や姫路の例を丁寧に取り上げており、その前言は取り下げたいほど丁寧でした。
 さらに、4日の同面には越後石山駅大形駅の駅前広場が整備されたニュースも取り上げられていました。決して、地元新聞社が理解不足気味に先走って公共交通政策について記事にしていないことがわかります。
 少なくとも、高架後の新潟駅真下部分の道路には一般車は乗り入れさせるべきではないです。バス・タクシー・身障者マークをつけた自家用車以外は駅前広場のど真ん中に入るべきではなく、やや迂回気味にするのがよりよい形だと思っています。

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 1990年代、まだコンパクトシティの考え方は一般的ではありませんでした
 だから、沿道の振動・騒音から路面区間が廃止されたのは致し方なかったのかもしれません。外国の都市内公共交通事例を勉強するたび、新潟交通電車線の路面区間の廃止は、ただただ、返す返すも残念でなりません。
 新潟市は、新潟駅在来線高架化とともに、BRT(バス高速輸送システム、Bus Rapid Transit)を進めようとしています。新潟市が「新たな交通システム」と呼ぶBRTについては、政争にまで発展し、市長選挙の最大の争点となりました。迷走しているといっても過言ではないでしょう。

 これらを見ていく限り、「新潟市最大の不幸」となっている都市内公共交通政策について、誰もが賛成しなくとも理解を示し納得できる明確な「公共交通政策ビジョン」が欠如、あるいは説明が満足されていないと思うのです。残念でなりません。

 今年度は、いよいよBRT整備の最終年度、いよいよ本格的にBRTが走り出します。
 鉄ヲタだから、鉄道(路面電車)を復活してくれ、と言う気は全くありません。
BRTがうまく機能して、それでも混雑を解消するには、LRT(ライトレール)が必要となったからでいいのです。不要なら不要でBRTがうまく機能すればいい話です。

 この新潟市最大の不幸を跳ね返すほど、新たな交通システムを含めた「公共交通政策ビジョン」をしっかりと示してほしいものです。